これでいいのか自転車保険

自転車利用者の保険加入義務付けが進む

きっかけは、平成25(2013)年7月4日の神戸地方裁判所判決だったかと思います。
当時11歳だった少年は帰宅途中、ライトを点灯しマウンテンバイクで坂を下っていたが、知人と散歩していた女性に気づかず、正面衝突。女性は突き飛ばされる形で転倒し、頭を強打。一命は取り留めたものの意識は戻らず、4年以上が過ぎた今も寝たきりの状態が続いている。
裁判で女性側は、自転車の少年は高速で坂を下るなど交通ルールに反した危険な運転行為で、母親は日常的に監督義務を負っていたと主張し、計約1億590万円の損害賠償を求めた。
一方、母親側は少年が適切にハンドル操作し、母親もライトの点灯やヘルメットの着用を指導していたとして過失の相殺を主張していた。
しかし、判決で田中智子裁判官は、少年が時速20~30キロで走行し、少年の前方不注視が事故の原因と認定。事故時はヘルメット未着用だったことなどを挙げ、「指導や注意が功を奏しておらず、監督義務を果たしていない」として、母親に計約9500万円の賠償を命じた。
上の記事にもあるように、「自転車事故による高額賠償命令は以前から出されて」いたのですが、この判決が大々的に報道されたことがきっかけで、全国の自治体が自転車利用者の保険加入義務化を盛り込んだ条例を制定するようになりました。名古屋市においても、事故報道の直後の市議会9月定例会にて保険加入促進の話題が出ました。
公明党 佐藤健一市議:初めに、「自転車保険の加入促進について」であります。
 ここ数年の自転車ブームが、最近さらに過熱している状況にあります。自転車利用者が増加する中、平成24年の自転車乗用中の交通事故件数は全国で13万2048件、交通事故件数に占める割合は19.9%と、前年に比べ減少したものの、いまだに2割と高い割合で推移しています。
 また、自転車乗用中による死傷者数は13万1762人と交通事故全体の死傷者数に占める割合は15.9%と高い数値を示しており、このうち4割を若者と子供で占めていると日本交通安全教育普及協会が調査しています。
 また、最近の傾向として、自転車が加害者となるケースも目立ってきています。加害事故を起こす主な要因は、安全不確認、一時不停止、信号無視ですが、最近は歩道を無秩序に通行する自転車による事故も多発しており、高額の賠償責任を負う場合もあります。
 マスコミでも大きく取り上げられた最近の事例では、2008年9月にマウンテンバイクに乗った当時小学5年生の男の子が坂道を下っていたところ、知人の散歩に付き添って歩いていた女性をはね、女性は頭蓋骨を骨折し、現在も意識不明の状態が続いています。母親側は、少年が適切にハンドル操作し、母親もライトの点灯やヘルメットの着用を指導していたとして、過失の相殺を主張していましたが、神戸地裁の判決で裁判官は、少年が時速二、三十キロで走行し、少年の前方不注視が事故の原因と認定し、事故時はヘルメット未着用だったことなどを挙げ、指導や注意が功を奏しておらず監督義務を果たしていないとして、母親に計約9500万円の賠償を命じております。
 本判決は係争中ですが、同様に判例として、9266万円、6779万円の自転車加害事故による賠償判決が出ております。また、民法上12歳ぐらいまでは責任無能力とされ、未就学児と小学生の行為は親の責任になる確率が非常に高く、子供が学校にいる間も例外ではなく、親が何度も注意したと主張しても、監督責任を果たしていないという理由で保護者に責任が生じる例があります。
 このように、保険加入義務がない自転車の事故をめぐっては、高額な賠償命令が出されるケースも多くあり、自己破産に至る例も少なくありません。大変重大な問題となっている自転車事故については、以前、我が会派の木下議員からも質問しております。また、損害保険の特徴として、賠償責任保険を重複して加入しても、総額ではなく賠償額しか出ないケースも多くあります。適正な自転車保険を行政が周知し、さらに加入を促進する必要があると感じます。
(以下略)
これを受けて検討を進めた結果、平成29年3月公布、10月施行の「名古屋市自転車の安全で適正な利用の促進に関する条例」で自転車損害賠償保険等の加入が義務付けられることとなりました(罰則はなし)。
「いいことじゃないか。自転車事故で何千万という賠償金を払うことになったら大変だ。保険を義務化すれば加害者も被害者も安心だろう」――多くの方がそう考えるであろうことは想像に難くありません。でもこの件、私にはなんだかいろいろ間違えているように思えてならないのです。

保険保険と言うまえに

ここでちょっとクルマのことを考えてみます。1トンも2トンもある鉄のかたまりが人をどっかんどっかんはねとばしては困るということで、いまのところ国は

  1. 免許制度によって一定水準の知識と技量があることを保証し
  2. 安全な運転ができない運転者を取締と減点によって排除
  3. 走行空間を歩行者とは(可能な限り)物理的に分離

ということをやっています。そしてこれらの施策はすべて公共事業として行われています(地方道路税ガーと叫びたい方もおられるでしょうが、クルマのために作られたインフラや制度の費用のうち地方道路税で賄われている部分なんて微々たるものです)。ひるがえって自転車はどうか。

  1. 教育は各家庭におまかせ、学校でも年に1回交通安全講習があればいいほう
  2. 反則金制度も減点もなく実効性のある取り締まりが行われてこなかった(平成27年6月1日から自転車運転者講習制度が始まり、検挙件数も増えつつありますが)
  3. 自転車道や自転車レーンはほぼ存在しないレベル

これで「自転車は危ない! 保険が必要!」とか言われて保険料を負担させられるというのはちょっとすっきりしません。まずは国が、そして地方自治体が

  1. 自転車で安全に走れるようになるのに十分な質と量の教育を用意し
  2. 危険な運転をする自転車を積極的に取り締まり(しょうもない交通安全キャンペーンとかやってないで)
  3. 自転車道・自転車レーンをしっかり作っていく

のが先ではないでしょうか。

自転車事故の現状

ここで道路:第1回 自転車の運行による損害賠償保障制度のあり方等に関する検討会 配付資料 - 国土交通省より資料をひとつ。
『自転車関連事故は年々減少しているのに対し、「自転車対歩行者」事故は減少せずに横ばいである』『「自転車相互」は年々減少してきていたが、平成27年から増加しており、「自転車対歩行者」事故の件数より多い』うんうん、そうですね。でもちょっと待ってくださいよ、そのうしろの緑色の棒グラフ、9万件ですよ!? 年々減少している、でスルーしていい数字じゃないでしょう!? 自転車も加害者になりうる、そうでしょう、裁判になって多額の賠償金を請求されることもある、たしかに、でも言ってしまえばたかが5,300件です。保険の義務化だなんだとやっている暇があったら9万件をなんとかするのが先じゃないんですか!?
上記は全国のデータですが、名古屋市の平成29年の人身事故データはどうなっているでしょうか。
自転車相互:64件、負傷者77人、死者0人
自転車対歩行者:45件、負傷者45人、死者0人
自動車対自転車:2,801件、負傷者2,826人、死者6人
自動車対動くなにか:11,868件、負傷者14,596人 、死者30人
(なお自動車には二輪を含まず)
わかりきったことですが、全国のデータに比べると自転車相互あるいは自転車対歩行者の事故の割合が半分以下になっていますね(=クルマがからむ事故が多い)。この数字を見た自転車利用者が関心を持つのは、どうやればクルマに殺されないかということであって、自転車保険どうしようか、などと悠長なことを言っている場合ではないはずです。

保険屋さん、もうかってますか?

ここでちょっと計算してみましょう。まず、名古屋市で何人ぐらい自転車に乗っているのか? 平成30年度 自転車保有実態に関する調査報告書 抜粋(PDFファイル)によると、愛知県の一世帯あたり自転車保有台数は1.325台だそうです。ただし全国統計では、保有自転車のうち5.7%はすでに乗らなくなって処分待ちということです。
令和元年8月1日時点の名古屋市の世帯数は1,116,596世帯
1.325×94.3%×1,116,596=1,395,158台ですから、まあ1人1台と考えて、140万人が自転車に乗っているとみなします。

この記事によれば愛知県の自転車保険加入率は62.3%、そして名古屋市のサイトで紹介されている自転車保険で最も安価なのが、一般社団法人自転車安全対策協議会の提供するなごや市民の自転車保険、年額1,180円(賠償責任補償1億円)。これらをかけあわせると
140万人×62.3%×1,180円/年=10億3千万円/年
という数字になります。あくまでかんたんな見積もりですが、そう大きく違っていることはないはずです。
ではクルマの保険料はいくらぐらいでしょう。自動車保険の概況|損害保険料率算出機構によれば、
自賠責保険料が10,597億 (円/契約期間)÷(保有車両数81,563千台/契約台数42,997千台)÷保有車両数81,563千台=6,849円/台・年、
任意保険が総額3兆9,600億円なので保有車両数81,563千台で割って48,551円/台・年、
自賠責保険+任意保険の合計が55,400円/台・年
となります。また名古屋市内の登録自動車数は120万台です(名古屋市:区別自動車台数の推移(市政情報))からこれを乗じて665億円になります。これを自転車と比較してみましょう。ただし任意保険の支払額のうち34%は車両保険ですので、これを考慮すると名古屋市の自動車ユーザーの保険支払額は439億円となり、
自転車:10億3千万円で77+45=122人の負傷者の面倒をみる
自動車:439億円で負傷者14,596人と死者30人(と相手のクルマ)の面倒をみる
という計算になります。こうしてみると自転車のほうが2~3倍割高かな、というところです。
もっとも、保険会社が不当に利益をむさぼっているとかそういう話ではなく、保険金が少額なので事務手数料の比率がどうしても大きくなるということだと思います。
このように割高な保険料と、自転車を買って乗るという行為に比べるとえらくめんどくさい加入手続きのせいで、保険加入率はなかなか上がっていかないのではないかな、と推測しています。ちょっとあとで対策を考えてみましょう。

どうせお金を払うなら

それにしても、10億円というのはけっこうな金額です。加入率62.3%でこの数字ですから、条例が目指すように全自転車利用者が加入することになればその額は16億5千万にものぼります。
ここでためしに名古屋市の自転車関連予算を見てみると、放置自転車対策(放置自転車の撤去・管理・返還と有料駐輪場整備費用)が毎年10~20億円、自転車利用環境整備(自歩道上を色分けしたり自転車レーンを作ったりする費用)が2~3千万円です。
自転車はいまや単なる便利なアシではなく、社会的弱者を含め誰もが自尊心をもって健康に暮らすために、そして自動車を減らして生命を守り、貴重な都市空間の活用を可能にするためになくてはならないインフラです。そのために費やす予算が、市民が支払う保険金よりも少ないというのは、はっきり間違っていると言ってしまっていいのではないでしょうか。しかも保険金は毎年掛け捨て。どうせ同じ額を払うのであれば、年間たったの2~3千万円しか割り当てられていない自転車利用環境整備に充当してほしいものです。東京都における自転車走行空間ネットワーク整備に関する提言書(PDF)によれば、「駐車帯兼緩衝帯を併設した自転車レーン(塗装+ボラード):1メートルあたり約28,400円」だそうです。年間16億5千万を保険会社に払うぐらいなら、自転車レーンを58km整備して自転車が加害者になる事故をどんどん減らしていくほうがお金の使いみちとしてはよっぽど賢いのではないでしょうか。
実はこれ、駐輪場にも同じことが言えまして、借金してでも(=市債を追加発行してでも)一気に駐輪場を整備してしまえば、その後は放置自転車がぐっと減るわけですから、撤去・保管・返還費用も圧縮できたわけです。それをしなかったがために、現在の我々がこうしてツケを支払っているのです。

まとめ、そして自転車保険のこれから

自転車保険の重要性については疑いのないところですが、(1) 少額の保険であるため割高であり、また (2) 自転車購入の手間に比べると、どんな保険商品があるのかを調べて比較検討して契約手続きをするというのはいささか煩雑です。(1) の保険料を下げるためには、インフラ整備と必要十分な教育機会の提供が有効であり、そうすべきだという話をこれまでにさせていただきました。他にはどういった対策が考えられるでしょうか。
まず、保険プランを統一するというのがひとつの手だと思います。もちろん保険会社の商品をコントロールすることはできないわけですから、たとえば自治体が「自転車利用者むけ保険としてふさわしい」プランというのをひとつ定め、それに合致した商品を自治体のサイトで紹介、というのが落とし所になるでしょう。しかしそうすると結局自転車利用者に選択の余地を残してしまいます。ここはひとつさらに進んで、自治体による一括加入を提案します。自治体がプランを決め、そのプランの商品を競争入札で保険会社から調達し、まとめて加入手続きをするのです。自転車屋さんで自転車を買うときはだいたい住所氏名を書くでしょうから、それを自治体に送れば手続完了です。
ただ、市民の3人に2人が自転車に乗っている現状で、いちいち保険契約者の情報を集めたり保管したりするのはけっこうコストがかさみそうです。ここはいっそ、自治体が保険費用を支払うことにして個々の市民の加入手続を不要として、事故を起こした人が誰であれ補償します、といってみるのも手かと思います。そうしますとおそらく保険料は自治体内での自転車事故件数に応じて上下しますから、事故を減らすことに対するモチベーションにもなるでしょう。まあここまでくると、いっそ自転車事故に限らず一般的な賠償責任保険に自治体ごと加入してしまえばという話になるかもしれません。実際、現在でも下記のような例があるわけです。
家族のもとに昨年、市高齢福祉課から「お知らせ」が届いた。11月から市が保険料を全額負担し、個人賠償責任保険と傷害保険に加入するという内容だった。対象はSOSネットに登録する50~90代の男女約260人(今年2月末現在)。日常生活の様々な事故に対する補償額は最大3億円。本人のケガや死亡・後遺障害の補償もつく。保険料として約320万円の予算を確保した。
平成29年に自転車活用推進法が施行されて以来、全国の自治体でも自転車活用推進計画の制定が進んでいるわけですが、いまのところどれも国の計画の引き写しでしかなく、目を引くような変化を引き起こせていないのが現状です。やはりここは、右へならえではない、自治体の知恵と工夫がつまった新しい計画を期待したいですし、本稿がその一助となることを願ってやみません。

(2020年7月追記:自治体が自転車保険料を全額負担している事例について読者の方から情報提供いただきました)

小中学校の交通安全教育を受けた小学5、6年生と中学生を対象に、市が一括して保険に加入する。補償額は最大1億円で、契約は1年ごとに更新。年間計約9千人の加入を見込む。市は8日、民間保険会社と協定を締結。団体加入によって1人当たりの保険料を千円弱に抑えられる見通しという。
自転車保険を全額負担 大和市が全国初 | 政治行政 | カナロコ by 神奈川新聞

おまけ

素人の思いつきに興味はない、国はなにをやってるんだ国は! という方はこちらをごらんください。
道路:自転車の運行による損害賠償保障制度のあり方等に関する検討会 - 国土交通省

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